鳥取県 若桜町
(わかさちょう)
- 人口:2,868人
- 面積:199km
- 財政力指数:0.13
- 情報更新日:2022/3/27
豊かな自然と歴史・文化のなかで人を育て活力と魅力あふれまち ~緑と清流のまち~ 人と自然が織りなす素晴らしき故郷
- 中国地方
- 鳥取
- 八頭郡
- 豪雪地帯
- 棚田
- 若桜神社
若桜町ってどんなところ?
About
若桜の名は履中天皇(大和時代)のとき出たことが姓氏録にあります。「郡郷考」には、若桜を和加佐と読み、古姓若桜部に因むとあるから、読み方も昔から 「わかさ」であり、地名若桜は姓の若桜から出たものと思われます。
「和名抄」の中に、八上郡若桜郷とあり、また奈良の東大寺に因幡若桜部が進上物をした記録があるので、聖武天皇(奈良時代)のころに若桜氏がいたことになり、若桜は千数百年以前からあったことが窺われます。
若桜というのは村の名ではなく郷の名で27カ村からなり、現在の若桜中心街は山田村、溝見村などと呼ばれていました。「矢部系譜」によると、駿河国の住人矢部彦五郎の一族矢部十良暉種が戦功によって鎌倉幕府より八東若桜郷20余力村を賜り、山田の山上(鶴尾山)に城を築いたと書かれ ています。これが若桜鬼ケ城の始めで、正治2年(西暦1200)となります。
その後、矢部氏は16代居城し、その後豊臣秀吉の武将、木下備中守が八東、智頭2部に封ぜられ、鬼ケ城の規模を大にして縄張りを変え城下町若桜を造りました。山崎氏がこれをうけつぎ、元和3年池田氏が一国一城の定めに従 って、若桜城を廃城しました。
以来若桜は宿場として交通の要衝、地方物資の集散地として発展し、明治4年廃藩置県、明治22年町村制の実施、明治29年三郡の合併(現在の八頭郡)など、変遷する時代の要求により、離合集散の過程を繰り返しつつ今日に及んでいます。
(公式Webより引用)
「和名抄」の中に、八上郡若桜郷とあり、また奈良の東大寺に因幡若桜部が進上物をした記録があるので、聖武天皇(奈良時代)のころに若桜氏がいたことになり、若桜は千数百年以前からあったことが窺われます。
若桜というのは村の名ではなく郷の名で27カ村からなり、現在の若桜中心街は山田村、溝見村などと呼ばれていました。「矢部系譜」によると、駿河国の住人矢部彦五郎の一族矢部十良暉種が戦功によって鎌倉幕府より八東若桜郷20余力村を賜り、山田の山上(鶴尾山)に城を築いたと書かれ ています。これが若桜鬼ケ城の始めで、正治2年(西暦1200)となります。
その後、矢部氏は16代居城し、その後豊臣秀吉の武将、木下備中守が八東、智頭2部に封ぜられ、鬼ケ城の規模を大にして縄張りを変え城下町若桜を造りました。山崎氏がこれをうけつぎ、元和3年池田氏が一国一城の定めに従 って、若桜城を廃城しました。
以来若桜は宿場として交通の要衝、地方物資の集散地として発展し、明治4年廃藩置県、明治22年町村制の実施、明治29年三郡の合併(現在の八頭郡)など、変遷する時代の要求により、離合集散の過程を繰り返しつつ今日に及んでいます。
(公式Webより引用)
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