富山県 朝日町
(あさひまち)
- 人口:11,093人
- 面積:226km
- 財政力指数:0.38
- 情報更新日:2022/3/27
「うみ彦・やま彦・夢産地」 人と自然、心と心、ふれあうまち“あさひ”
- 中部地方
- 北陸
- 富山
- 新川郡
- ビーチボールバレー
- ヒスイ海岸
朝日町ってどんなところ?
About
朝日町の歴史は旧石器時代に始まり、日本最大級の竪穴式住居が発見された縄文中期の不動堂遺跡からは、当時すでに集会や共同作業などが進んだ社会、文化をもった人々が生活していたことがうかがえます。さらに約1500年前の宮崎浜山玉つくり遺跡からは、ヒスイの原石を加工した勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)などが出土しており、古墳時代の大和政権の勢力が富山県の東端まできていたことと、すぐれた玉造り技術を持った玉造り部があったことをうかがわせています。
平安時代の地方豪族宮崎太郎は、後白河法皇の皇孫北陸宮を宮崎城に迎え入れ、平家討伐の軍を進めました。宮崎城は、戦国時代になると越中、越後の国境の地として数度に及ぶ戦場となり、国境警備のねじろとされてきました。これに伴って、和倉の地に土着した人たちが集落を形成したのが、泊町のおこりです。
江戸時代は加賀藩の統治下にあり、親不知を控えた越中の東縁という地理的条件から境に関所が設けられ、街道筋の泊は交通の要衝となり、宿場町として栄えてきました。
明治に入ってからは町村制が施行され、昭和26年には国の法律により町村合併が推奨されました。
そして昭和29年8月、山崎村、大家庄村、南保村、五箇庄村、泊町、宮崎村、境村、の1町6村が合併し、名峰朝日岳にちなんで「朝日町」と名付けられ、朝日町が誕生しました。
(公式Webより引用)
平安時代の地方豪族宮崎太郎は、後白河法皇の皇孫北陸宮を宮崎城に迎え入れ、平家討伐の軍を進めました。宮崎城は、戦国時代になると越中、越後の国境の地として数度に及ぶ戦場となり、国境警備のねじろとされてきました。これに伴って、和倉の地に土着した人たちが集落を形成したのが、泊町のおこりです。
江戸時代は加賀藩の統治下にあり、親不知を控えた越中の東縁という地理的条件から境に関所が設けられ、街道筋の泊は交通の要衝となり、宿場町として栄えてきました。
明治に入ってからは町村制が施行され、昭和26年には国の法律により町村合併が推奨されました。
そして昭和29年8月、山崎村、大家庄村、南保村、五箇庄村、泊町、宮崎村、境村、の1町6村が合併し、名峰朝日岳にちなんで「朝日町」と名付けられ、朝日町が誕生しました。
(公式Webより引用)
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