青森県 五戸町
(ごのへまち)
- 人口:16,051人
- 面積:178km
- 財政力指数:0.29
- 情報更新日:2022/3/27
みんなで創る、活気のあるまち「ごのへ」
- 東北地方
- 青森
- 三戸郡
- 馬肉
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- 青森シャモロック
五戸町ってどんなところ?
About
本町に人々が定住したのは、数々の遺跡の発見から5千年以上前の縄文時代までさかのぼると考えられている。文治5年(1189)、甲斐国南部三郎光行が、軍功によって糠部(今の青森県三八・上北地方など)の五郡を授けられたのがいわゆる南部氏の始まりであり、この糠部地方が軍馬の育成に適していることから、九つの戸(牧場)に分け、さらに、東西南北に分けた四門九戸の牧場制が敷かれ、ここから五戸の地名が誕生したといわれている。史書に残る最も古い記述では、寛元4年(1246)、鎌倉幕府の執権、北条時頼が左衛門尉平盛時に下した知行状に「陸奥国糠部五戸」という記述が見られる。
当時、この糠部地方は南部氏が統治していたにもかかわらず、平盛時を地頭の代職に任命していることは、南部氏には属さず、幕府直轄地であり、また、糠部五戸とは、一つの集落の名ではなく、田畑・牧野・郷を包含した広い地域名であって、永仁5年(1297)の五戸郷々の検注状(土地測量報告書)の五戸郷々に相当する地域(新郷・倉石・五戸・八戸市豊崎町・市川町といった戦前の1町7ケ村)と推測されている。慶長以後南部氏に属し、地方の産業、経済、文化の要衝として、南部藩独自の通制の五戸代官所が置かれ、五戸通りは三戸郡下13ケ村、北郡下(今の上北郡)15ケ村、合わせて28ケ村の司法、行政、警察権を統括し、藩政末期には1万4,170石を領していた。
明治22年4月、町村制施行により五戸村となり、大正4年11月に町制を施行して「五戸町」が誕生した。昭和30年7月五戸町、川内村及び浅田村が合併し新五戸町が誕生。さらに野沢村手倉橋、豊崎村豊間内の一部を編入。平成16年7月、倉石村を編入合併して現在に至っている。
古くから馬産地として知られ、米、りんご、野菜を基幹作物として葉たばこ、畜産等との複合経営による農業が基幹産業であるが、八戸地区新産業都市の指定を受けて以来、地蔵平工業団地に企業誘致を進め、農工併進の町として発展の一途をたどっている。
(公式Webより引用)
当時、この糠部地方は南部氏が統治していたにもかかわらず、平盛時を地頭の代職に任命していることは、南部氏には属さず、幕府直轄地であり、また、糠部五戸とは、一つの集落の名ではなく、田畑・牧野・郷を包含した広い地域名であって、永仁5年(1297)の五戸郷々の検注状(土地測量報告書)の五戸郷々に相当する地域(新郷・倉石・五戸・八戸市豊崎町・市川町といった戦前の1町7ケ村)と推測されている。慶長以後南部氏に属し、地方の産業、経済、文化の要衝として、南部藩独自の通制の五戸代官所が置かれ、五戸通りは三戸郡下13ケ村、北郡下(今の上北郡)15ケ村、合わせて28ケ村の司法、行政、警察権を統括し、藩政末期には1万4,170石を領していた。
明治22年4月、町村制施行により五戸村となり、大正4年11月に町制を施行して「五戸町」が誕生した。昭和30年7月五戸町、川内村及び浅田村が合併し新五戸町が誕生。さらに野沢村手倉橋、豊崎村豊間内の一部を編入。平成16年7月、倉石村を編入合併して現在に至っている。
古くから馬産地として知られ、米、りんご、野菜を基幹作物として葉たばこ、畜産等との複合経営による農業が基幹産業であるが、八戸地区新産業都市の指定を受けて以来、地蔵平工業団地に企業誘致を進め、農工併進の町として発展の一途をたどっている。
(公式Webより引用)
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